マーロウ的なあんな事こんな事
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Camel
発売日:2002/06/10
あまなつ

ポール ギャリコ
発売日:1996/12
あまなつ

これも相当入れ込んだプログレバンドです。キャラバンのメンバー(リチャード・シンクレア)がキャメルに移籍した時は「キャラメルだ」と冗談を言ったりしました。
後半はあまり聴いていないのですが、どのアルバムも大好きです。
特にこのアルバムは代表作だと思います。
LPに入っていたライナーノーツにあった原作のあらすじが素晴らしい出来で、あまりの素晴らしさのため、原作者よりクレームがついて差し替えられてしまったという噂もあります。
当時いくら探しても見つからなかったポール・ギャリコ原作のスノーグースが最近文庫本で発売されてうれしかったです。
でも、原作本よりライナーノーツに書いてあった粗筋の方が個人的には良かったかも。(^_^;
とにかくまず、物語の内容を把握してから聴く事をお薦めします。
音と情景がしっかり結びついて泣けます。
(間違ってもカリフォルニアの青い空は思い浮かべないように。)
先にサウンドトラックが出来てしまった映画のような映像が浮かんでくるでしょう。
ライヴ・ファンタジア+7」では、丸々全曲ライブ演奏しています。
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【2005/07/15 Fri】 音楽 // トラックバック(0) // コメント(0)
キャラヴァン
発売日:2002/09/21
あまなつ
もしかして私が一番入れ込んだプログレバンドかもしれない。
当時よく通っていた関内のロック喫茶「夢音」では、私が入っていくとマスターが何も言わずにこれをかけてくれました。
A面では「ウインター・ワイン」が好きですが、なんと言ってもB面全面を占める「9フィートのアンダーグラウンド」が最高です。
カンタベリー系のプログレって色がありますよね。
キャラバンの音の色ってこのジャケットに良く表れてるような気がします。
初期のキャラバンのアルバムは全部好きです。「ウォータールー・リリー+3 」も「キャラバン登場+4」も「Live...」きりがないなぁ。
ジャケットにこのアルバムの雰囲気全てが表れています。
以前、カラオケ屋のリストに「ウインター・ワイン」を見つけてビックリ!
半信半疑で聞いてみると、確かにこのアルバムに入っている「ウインター・ワイン」でした。(^_^) 歌えないけど…
【2005/07/15 Fri】 音楽 // トラックバック(0) // コメント(0)
初めてワールドカップという物をTVで見たのは、1970年のメキシコワールドカップ
TVはもちろん金子・岡野の名コンビの三菱ダイヤモンドサッカー。
私は当時中学生で毎日部活のサッカーに明け暮れていた時だった。
この時の大会は当時のスター選手が沢山出場していて名勝負も多かった。
イングランド-西ドイツ、西ドイツ-イタリア...
優勝は円熟期にあったペレが率いるブラジル。
あの時のブラジルをリアルタイムで見ることができて、すごく良かったと思う。
メキシコの熱い太陽と相まって、ペレとブラジルがキラキラと輝いて見えた。
家庭用のビデオなんて無かった時代だから、見る物全てを頭の中に焼き付けようと、食い入るように画面を見ていた。
翌日は練習の前にみんなで集まって「ペレはやっぱ俺だな」「じゃぁ、俺がトスタンね」「トドメのカルロス・アルベルトは俺!」なんていう具合に役割を決めて、得点シーンをグラウンドで再現したりした。
「ペレは前を向いたまま、後ろから来たカルロス・アルベルトにパスを出したんだぞ」
「トスタンは360度回転しながらセンタリングした」
「ジャイルジーニョはファケッティに腕を引っ張られながらゴールしたぞ」
「とどめのシュートは逆サイドのネットを突き刺さなきゃ」
「ジェルソンはこの距離からのロングシュートだった」
なかなかうまくできなかったんだけど(^_^;
でもそうやっていると、ほんの少しだけペレやブラジルの選手達に近づけたような気がした。
デヴィッド・ベッカム
発売日:2006-03-24
価格
あまなつShopあまなつで見る同じレイアウトで作成

インストゥルメンタル
発売日:2002/01/30
あまなつ

先日、CDショップで「ドラム・マジョレット」という曲のCDを購入しました。
「ドラム・マジョレット」と聞いただけでピン!ときた人は、とてつもなくサッカーオタクかも。
しかも私と同じくらいのお歳を召してるはず。
ず~と探してたんだよなぁコレ。
この曲こそあの歴史に残るサッカー名番組「三菱ダイヤモンドサッカー」のオープニング・テーマ曲です。

ダイヤモンドサッカーテーマソング
シングル 2002/01/30発売
CD:EPCE-5138 \1200

01. ドラム・マジョレット
02. ドラム・マジョレット(ROCK VERSION)
03. ドラム・マジョレット(SAMBA VERSION)
サッカーファン待望!あのダイヤモンドサッカー(テレビ東京)テーマソングがサポーターたちの熱い要望に応えて、遂に世界初CD化大決定!20年間の全対戦カードの放送記録収録!頑張れ日本代表!
特典:1.20年間の全対戦カードの放送記録
   2.岡野俊一郎、金子勝彦対談
   3.小野伸二直筆サイン入りナイキサッカーボールプレゼント応募券付き

最近は「FIFA ANTHEM」を聴けば「サッカーの曲」と感じるようになりましたが、我々の年代ではサッカーの曲といえば、やっぱりこの「ダイヤモンドサッカーテーマ曲」ですよね。
家に帰ってさっそく聴いてみました。
「チャ~ン、チャララッタタララ、チャ~ン、チャララッタタララ…」
うわ~!当時のままです!!
(といっても、タイトルで使われていたのは最初の15秒くらいだけでしたから、その後の方を聴いても何だかピンとこないんですが…)
TVのチャンネルをガチャガチャ回して12に合わせると、そこに映し出される「三菱ダイヤモンドサッカー」のタイトル場面、そしてその前に座っている中学生の自分が、一気に蘇ってきたような気がしました。
え?たった15秒の思い出で1200円は高いですか?
ところがどっこい、おまけも良かった。
特に名解説をされていた岡野俊一郎氏とアナウンサーの金子勝彦氏の対談を読んだら、これだけでも当時のファンは死ねます。
なぜ、どうやってダイヤモンドサッカーが始まったのか?視聴率1~3%の番組がなぜ20年も続いたのか?CMがなぜ途中で入らなかったのか?
知りたいでしょう?
ここで書いちゃうとCDが売れなくなって怒られてしまうので書きませんけど(汗)

もう一つのおまけの「20年間の全対戦カードの放送記録」もすごい。
1968年の記念すべき第一回放送カードは何だか御存知ですか?
トットナム・ホットスパーズ 対 マンチェスター・ユナイテッド です。
9シーズン在籍したトットナム・ホットスパーズで、4度の得点王に輝いたジミー・グリーブスがマンチェスターUゴールを狙えば、マンチェスターUのジョージ・ベストの華麗なドリブルがスパーズのDF陣を切り刻み、ボビー・チャールトンが強烈なキャノン・シュートを放ち、センタリングにデニス・ローが飛び込んできてジャックナイフ・ヘッドでスパーズのゴールを脅かす…
そんな光景が今でもはっきりと思い出せるような気がします。
当時のアイドルっていったらジョージ・ベストでした。
サッカー界のビートルズとか言われてましたよね。
長髪やシャツの裾出しを流行らせた張本人でした。
ダイヤモンドサッカーのお陰で、まずはすっかりイングランドサッカーの虜になってしまった私は、「サッカーマガジン」だけでは飽きたらず、中学になると英国のサッカー専門誌「FOOTBALL MONTHLY」を横浜の有隣堂で取り寄せてもらい、毎月瀬谷から横浜まで受け取りに行ってました。
英語なんて読めなくたって、写真を見てるだけで十分楽しかったですから。
おっと、ダイヤモンドサッカーの話に戻って。
岡野、金子両氏の解説とアナウンスコンビも最高でした。
岡野氏の解説は単にサッカーの技術や戦術の解説にとどまらず、ルールブックにはないマナーの説明や個々のチームの背景にある人々の生活や風土にまで及び、スタジアムの雰囲気をいっそうリアルに伝えてくれました。
余談になりますが、私が高校のサッカー部員だった頃、どこだったか忘れてしまったのですが、関内辺りのホールで「ゴール!ゴール!ゴール!」というワールドカップのドキュメンタリー映画に招待されたことがありました。
70年メキシコワールドカップの映画だったと記憶していますが、映画が始まる前に壇上でこの映画の解説をして下さったのも、この岡野俊一郎さんでした。
お忙しい中、サッカーのために全国各地を飛び回って普及に努めて下さっていたのだと思います。
またその名解説を的確に引き出してくれたのは、サッカーファンの代表ともいえる金子アナウンサーでした。
「サッカーを愛する皆さん、ご機嫌いかがでしょうか。」金子アナウンサーの第一声はこれでしたね。(ちなみに金子さんは六ツ川SCの地元弘明寺にお住まいとか?)
決してオーバーなわざとらしい話し方ではなく、試合の流れを的確に伝えてくれる中に、氏のサッカーへの暖かい愛情が感じられるようなアナウンサーぶりでした。

今でこそ、いつでもどこかのチャンネルに合わせれば海外のサッカーを楽しめるような時代になりましたが、当時は海外のサッカーを見るための唯一の番組がこの「ダイヤモンドサッカー」でした。
ワールドカップというものが初めて放送されたのもこの番組です。
70年メキシコワールドカップ。
ダイヤモンドサッカーでは1年間で全試合の放送がされたそうです。
ペレ率いるブラジルがメキシコのアステカスタジアムの眩いばかりのピッチ上で繰り広げたサッカー。
まさに芸術的なサッカーを展開し、観ている私たちを異次元の世界にまで導いてくれました。
クライマックスにはペレの「頭の後ろに目がある」をまさに証明するようなアシストからカルロス・アルベルトがイタリアの息の根を止めるとどめのゴール!!
ソンブレロをかぶされたペレがなだれ込んできた観客に肩車をされてビクトリーラン。
ワールドカップの素晴らしさと興奮を思う存分堪能させてもらいました。
番組はこの後イングランドリーグからドイツ・ブンデスリーガーの放送へと移行していき、当時のブンデスリーガーでダントツに強かったバイエルン・ミュンヘンやボルシア・メンヘングラッドバッハなどの試合も見ることができました。
この時のヨーロッパ選手権での西ドイツの強さと素晴らしさは今でも忘れられません。
縦軸に後ろからフランツ・ベッケンバウアー、ギュンター・ネッツァー、ゲルト・ミュラーを揃えたこの西ドイツのサッカーは本当にすごかった。
74年西ドイツ大会の決勝戦は、ミュンヘン・オリンピックスタジアムから初めての衛星生中継でした。
「皇帝」フランツ・ベッケンバウアー率いる地元西ドイツに対するのは、「空飛ぶオランダ人」ヨハン・クライフを中心にトータルフットボール旋風を巻き起こしたオランダの対決。
7月7日、日本は七夕の夜11時でした。
ちょうど選挙の開票と重なり、他の放送局が開票速報の番組を流す中、テレビ東京だけが2時間の特別番組を組んでW杯決勝を放送してくれました。
この時も1年間かけて全試合を放送してくれました。

当時の私たちにとって、世界のサッカーを観る唯一の窓口であったこの番組が、現在の日本のサッカー界にもたらせた功績は計り知れないものがあると思います。
サッカーに関して鎖国状態であった日本に海外との門戸を開いてくれた番組であり、そのブラウン管に映し出された海外のサッカーは、それまで日本リーグしか知らなかった私たちに大きなカルチャーショックを与えてくれました。
それはまるで自分たちがいるのとは別世界の別次元で行われているサッカーでした。
「ワールドカップ」というものは日本代表が出ていなくて当たり前であり、日本がワールドカップに出場するなどとは夢にも思わなかった時代でした。
ですから98年フランス大会に日本が初出場したときには「違和感」さえ感じてしまいました。
そのワールドカップ初出場のあと、海外のサッカーは当たり前に観ることができ、日本人選手がその中で活躍している姿まで観ることができるようになりました。
しかし決してオーバーな話ではなく、この番組が無かったら2002年ワールドカップが日本で開催されるという夢のような話も、夢のまま終わっていたかもしれませんね。

まさしく「ダイヤモンドサッカー」に育てられた私たちの年代(30代後半以上かな)の方は、今はサッカーを下から支える立場になっている方が多いかと思います。
その下には「キャプテン翼世代」がいて、またその下には「Jリーグ世代」が続き…
そうですね、次は「2002年ワールドカップ世代」かな?
まだまだ日本のサッカーは進化し続けそうですね。
だって100年構想ですもんね。
頑張れニッポン!!

※この記事は2002年2月、つまり日韓W杯前に某所に書いた記事の流用です。
めもあある美術館」--
この題名を今まで何度思いかえしてみたことだろう。
5年周期ぐらいで、ふと思い出すことがあった。
小学校の時の国語の教科書に載っていた話--

家でしかられて外へ飛び出した「ぼく」は、夕日の射し込む路地裏の古道具屋片隅で、亡くなった祖母の描かれた油絵を見つける。
懐かしさにいっぱいになって、その絵を見ていると、のっぽの男が現れて、その絵を買って行ってしまう。
その男についていった「ぼく」は「めもあある美術館」に招待される。
「ぼく」がそこで見たものは...

--という内容。
何度も思い出すということは、小学生だった自分にとってよほど印象深い作品だったんだろう。
当時の小学校の教科書にしては、少々違った雰囲気を帯びた話だったからかもしれない。
いつになっても断片的な話の内容から、挿し絵の雰囲気、夕日にのびる影までいつまでも薄ぼんやりと覚えていた。

小学校を卒業してから30年以上経った先日、なんの拍子か家族の話題が国語の教科書の話になった。
その時にまた思い出したのが「めもあある美術館」の話だった。
「そういえば、お父さんが小学校の時の教科書にこんな話があったんだ」と話し始めたのだが、なにせうろ覚えのため、大まかにしか説明できず、もどかしい思いがつのるばかり。
そこで「ダメで元々」のつもりで検索サイトGoogleで検索したところ、記憶にあった「メモワール美術館」ではなく「めもあある美術館」と平仮名書きする題名であることが判明。
まさかヒットするとは思っていなかったので、これだけでもびっくりした。
改めて「めもあある美術館」と検索したところ、60件ほどのサイトにヒットした。
どうも中心に位置するのは、ずばり「めもあある美術館」というサイトらしい。
どきどきしながら、そのサイトのリンクをクリックした。

---
『めもあある美術館』のことを思い出してくださってどうもありがとう。
ずばり、あなたは小学生の頃、教科書に載っていたこのお話がもう一度読みたくてこのwebサイトにいらしたのでしょう?
あなたの前にも何人かが同じ目的でここに来られました。
『めもあある美術館』をもう一度読みたいあなた、みさきあてにメールをください。
あなたの夢はかないます。
---

表紙に書かれたこんなフレーズを目にして、びっくりしたのは確かだったが、その中には「やっぱり」という思いも確かにあった。
この作品に対して同じような思いを抱いている人がいるはずだという確信に近いものがあったように思う。
さっそく、みさきさんにメールを送った。--

こうして、今、まるで小学校の時の友達と再会したような思いで「めもあある美術館」を読むことができた。
---
懐かしい小学校の校舎と6年生の教室。
国語の授業中。
そこには先生の話は遠い彼方に置き去りにし、いつの間にか「めもあある美術館」の不思議な世界に迷い込んでしまっている自分がいる。
---

そんな様子を描いた絵が新たに私の美術館の中に展示されたような気がする。


作者の大井三重子さん(=ミステリー作家の故仁木悦子さん)
そして、みさきさんに感謝
柳ジョージの曲に「フェンスの向こうのアメリカ」という曲がある。
1982年に横浜の本牧のベースキャンプが日本に返還されるまでは、本牧の金網のフェンスの向こうにはアメリカがあった。
これはまだ本牧にそのアメリカがあった頃の話しだ。

ティナというのは呼び名でクリスティーナというのが本名だった。
アメリカ、フランス、中国、日本の血が混ざってると言っていたが、長い黒髪で見た目は日本人とほとんど変わらない、当時の手塚聡美にそっくりなかわいい子だった。
歳の頃は16か17だったと思う。別に恋愛感情があったわけではなくただの友達。

その日、ティナともう一人、ティナを紹介してくれたY香という女の子と3人で波乗りに行こうということになり、友達から借りた銀メタのスカイラインに乗って湘南海岸まで行った。
ティナは片言よりは少しましな位の日本語を話すのだが、カタカナ言葉になるとまるっきり英語の発音だった。
ゲータレイド、ドゥービーブラザース、...そうやって発音するのかぁ。
ティナの日本語はおもしろかった。
言いたい事は分かるんだが、選ぶ言葉が間違っている。
こちらが日本語を教え、ティナが英語を教える。
そのうちごっちゃになるからお互いに中途半端な日英語。

海に着くと女の子二人はもっぱら日光浴で、俺だけ辻堂のしょっぱい波に乗っていた。
「腹も減ったし帰ろう」かということで帰り支度をしていると、俺のボードを抱えて先に車に向かっていたティナが向こうの方で二人の男と揉めている様子。
Y香と一緒に慌ててと駆けつけると、英語でガンガンまくし立てているのはティナの方で、男達の方は何だか困った様子ですごすごと立ち去るところだった。
ティナに話を聞くと「ナンパされそうになった」と怒っていたが、ナンパしようとした男達も日本人だと思っていた相手がいきなり英語でビービーまくし立てたんだから、さぞビックリしたことだっただろう。

横浜まで戻って米軍根岸住宅への坂道を上っている途中に車がガス欠してしまった。
坂の途中に車を止めて、下のGSまでガソリンを買いに走って戻ると、車のところで知らないおじさんとティナ達が楽しそうに話していた。
家の前に車が止めてあったので出てきたらしい。
「おもしろいおねぇちゃんだね」というおじさんに苦笑いを返しながら、ポリタンクからガソリンを入れた。
イグニッション点火。..しない?
「おっかしいなぁ?」
そこへ横からおじさんが顔を覗かせて
「ボンネット開けてみな」
「ここを開けて、こうやってちょっとガソリンを浸してやれば...よしOK!」
ヴオン!!ヴオン!!
「おじさんありがとう!」
のティナの声に、おじさんも満更ではなさそうに手を振っていた。

根岸の丘の上に広がる根岸米軍住宅の入り口についた。
確か根岸競馬場跡に残る一等馬見所跡の年季の入った大きな建物の脇から入ったところが米軍のポリスボックスのようになっていて、その横には荷台付きのアメリカンなPC(ポリスカー)が止まっていた。
そこに3人で行ってから何だか許可証のような物をもらったような気もするが記憶が定かでない。
根岸の米軍住宅地はまるで映画で見たようなアメリカの郊外の住宅街そのものだった。
夏の日差しに照らされて緑に輝く一面の芝生。縦横に描かれた白っぽい道路。
そこにポツンポツンと建っている白い洋風の家々。
家と家の間には垣根もなく、ただ一面に緑の芝生が広がっているだけだった。
丘の上なので夏とはいえ気持ちの良い風が吹いている。
そこは日本の中とはいえ、確かにアメリカの風景だった。
建物は平屋の建物ばかりだったような覚えがある。
そりゃそうだろう。
敷地があれだけあるんだから、わざわざ二階建てにする必要もない。
ティナの家に向かう途中でPCに捕まっている車がいた。
普通の道から続いてるから、きっと知らずに紛れ込んでしまったんだろう。
英語でポリスに話しかけられて、なんて答えているんだろう。

ティナの家に着くとお母さんが笑顔で迎えてくれた。
お母さんはそこいらにいるおばさんと何の変わりもないまるっきりの日本人だったので安心して日本語で話すことができた。
マリという名の小さな白い犬を抱えていた。
お母さんに日本風(?)の挨拶をしていると「いいから早くこっちに来て」とティナの部屋に案内された。
部屋に作り付けの白いクローゼットの奥をガサガサと探っていたティナが、何やらスーパーの手提げ袋くらいの白いビニール袋を出してきた。
「これ、いる?いるんならあげるよ?」
と差し出された袋の中を覗き込むと、枯れ草が一杯入っていた。
「これって...!?」
「うん!」
「何でこんなに持ってんの?」
「友達に頼めばいくらでも持ってきてくれるよ」
Y香と顔を見合わせて、かなり怖じ気づいた俺だった。
ティナのお母さんに日本円をドルに両替してもらい、本牧のベースキャンプに遊びに行くことにした。
「お邪魔しました~」
「あら、もうお帰りなの?また来てくださいね。まったくこの子は..うんたらなんたら...」
「もう早く行こうよ!。うちのママったら、お客さんが来るとお説教が長くって!」
おいおい。お説教じゃなくて、これは挨拶だよ。
話が長いっていうより、それって日本人風の挨拶の流れだからなぁ。
と思いつつ名残惜しそうに見送ってくれたお母さんを後に3人で本牧のベースキャンプに向かった。

ベースの入り口に着いたときはすでに夕闇が迫っていた。
チェックを受けてフェンスの中へ入った。
ベースの中に入ることに対して特別な思いや憧れがあったわけではないのだが、そこは確かにアメリカの匂いがした。
通りの向かい側の「アロハ・カフェ」からハンバーガーをかじりながら眺めていたフェンスの向こうのアメリカだった。

薄闇に包まれた中、カクテル光線に浮かび上がる建物の立ち並ぶ中をティナの後について歩いていった。
ティナに連れられて最初に入った建物は「ボウリング場」だった。
中にはいると、ボウリングのレーンが5つくらいあって、ビヤ樽みたいな体型のアメリカ人の夫婦や家族連れがボウリングを楽しんでいた。
アロハを着た人の良さそうなおじさんが入っているカウンターでは、コーラやポップコーンに混ざって煎餅まで売っていた。
煎餅の値段が$で書いてあるのに少々違和感があった。
ここでやけにでっかいハンバーガーと缶コーラ(コークね)をティナを通訳にして買った。
コーラの缶の蓋を見ると何だか今まで見たこともない形状のプルトップが付いていた。
「ティナ。これどうやって開けるんだよ。」
「え?こうだよ。」
情けないったりゃありゃしない。
日本でその形のプルトップにお目にかかったのは、それから何年か後のことだった。
海で遊び疲れていたのでボウリングは遠慮することにして、そこで長い時間しゃべっていた。
「基地の輸送機に乗せてもらえば1000円くらいで世界中に連れて行ってもらえるんだよ」
「パスポートもいらないしね」
そんな他愛もない話をしてからその建物を後にした。
外に出ると辺りはすっかり夜になっていた。
「これからどうしようか?」
目の前に映画館があった。
「それじゃあ、映画でも観ない?」と手を引くティナ。
「映画館まであるんだ?ところで、その映画って字幕とか出んのかな?」
「なに?ジマクって?」
英語がボロボロの俺にとって、字幕無しの洋画は致命傷だったので、映画を観ることはあきらめた。
その後、ベース内のどこで何をしていたかな?ほとんど記憶がない。

「そろそろ帰ろう」ということになってフェンスの中から外へ、つまり日本へ帰ってきた。
ゲートの外に出て、さてどうしようかと3人で立っていると、遠くの方から異様に太いエキゾーストノイズが聞こえてきた。
こちらに向かってきたのは白いファイヤーバード・トランザム。
いや、原型はファイヤーバードなんだろうが、異様にヒップアップしている。
後輪はテレビのF1でしか見たことのない超極太のスリックタイヤ。
あんなので本牧の街でシグナルレースやられたら、日本車じゃ敵わないよなぁと思っていると、その車が巨人の足踏みのようなノイズを轟かせながら、目の前までやってきて止まった。
辺り一面「ドッ!ドドッ!ドドッ!」と強烈なエキゾーストノイズと強烈なオイルの匂い。
こいつどんなエンジン載っけてるんだ?!
左側の運転席から金髪の若い男が顔を出した。若いっていうより、まだ幼さの残る顔立ち。
本当に免許持ってんのかよ。
その金髪男が「ティナ!」と声を掛けてきた。
ティナがニコニコしながら車に近寄っていき、ノイズに負けまいとなにやら怒鳴るように話しているのを、Y香と一緒に一歩退きつつ眺めていた。
話し終えたティナが駆け寄ってくる。
「あの子達が一緒に遊ばないかって言ってるけどどうする?」
と怒鳴った。
怒鳴るように話さないと何も聞こえない。
「え!」たじろぐ俺。
「でも私、あの子達あんまり好きじゃないのよね。変なことしようとするし。」
へ、変な事って?
「そ、そうかぁ。じゃぁまた今度にしよう」
「うん、分かった。そう言ってくるね。」
う~ん。根性無しな俺。
再びティナが金髪男に駆け寄って何やら言うと、金髪男は俺等に向かって「バイ!シーユー!」とニコニコと手を振りながら、夜の本牧の街に巨人の足音を轟かせながら消えていった。
「今日はすごく楽しかった」と言うティナを根岸米軍住宅まで送っていった。
ところがティナは住宅の前で会った友達と「一度家に帰ると出られないから」と言いながらまた夜の街に繰り出していっちゃいました。

そのティナもその1年後くらいにパパの転任で、またどこかの国の基地に行ってしまったらしい。
今頃はビヤ樽ママになってるのかな。

そんなティナの思い出でした。


あとがき
実はもう一度違う場所で「アメリカに入った」事がある。
測量のアルバイトをしているときに入った横須賀基地だった。
山のような大きさのスクリューが転がっている空き地で測量のメジャーを引っ張っている自分に、ジョギングしている兵隊が「ハロー」なんて言っていた。

30年近く前のことを記憶の糸を辿りつつ書くのはかなり骨が折れる。
しかもフェンスの向こうのアメリカといいつつ、肝心のフェンスの中での記憶があまり残っていない。
それよりもティナの笑顔ばかりが思い出される。
あ、何度も断っておくけど恋愛感情は全く無かったよ。

ティナと別れたその日は、Y香と二人でリンディかなんかへ行って踊り明かしたような覚えがある。
リンディに行くときはいつもより少しだけ格好つけて行かなければならない雰囲気があった。
当時は横浜駅西口五番街のソウルトレイン、後発でK&E、山下町のサーカス、関内のインフィニティやカウベルなんていうディスコがあったが、大人っぽい雰囲気があったのはこの本牧リンディだった覚えがある。
私がよく通ったのは、家から歩いて行けて弟もバイトをしていたソウルトレインだったが、横須賀の基地に米軍の空母かなんかが来ると、横須賀から米軍さんが大挙して押し掛けて、どこの国だか分からないような状態になっていた。
女の子なんてみんな連れて行かれちゃうし。
でも新しい曲やステップとかがどんどん入ってきていた。
当時は高嶺の花だった「洋モク」(死語)もカートンで日本の煙草よりも安く分けてもらえた。
そういえばK&E開店の際には自宅に招待状が来たりしたぞ。

先日、ある集まりで某さんとお話しした際に、ベースがあった頃の本牧の話が出た。
私がベースの中に入ったのはこれが最初で最後だったが、某さんは8年あまりベースの中でカーウォッシュやハウスクリーニングなどのバイトをしていたそうで、当時のベース内のおもしろいお話をうかがうことができた。
当時のベース内の雰囲気を知っている人って貴重な存在かもしれない。
HNの「マーロウ(marlowe)」は、レイモンド・チャンドラーの有名探偵小説シリーズの主人公フィリップ・マーロウから借りました。
といっても、このブログはチャンドラーやハードボイルドの話題とは特に関係ありませんので悪しからず。
マーロウシリーズの小説は好きだけど、それよりもマーロウという響きが好きなんです。
気の向くままに思いついたことなどを書いていきたいと思います。
どうぞよろしく。
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